中国が8000万人のギグワーカーに労災保護を導入へ
はじめに
中国政府がギグワーカーの待遇改善に本格的に乗り出しています。2026年から全国の出前配達員などを対象に、サービス運営会社の責任のもとで労災に相当する新たな保障制度への加入を義務付ける方針です。
中国ではインターネットを通じて単発の仕事を請け負う「ギグワーカー」が2億人を超え、労働者全体の約3分の1を占めるまでに拡大しました。しかし、その多くは社会保険の対象外に置かれ、事故やケガに対する保障が不十分な状態が続いてきました。本記事では、中国のギグワーカー保護政策の背景と、若者の雇用問題との関連について解説します。
中国ギグワーカーの現状
2億人を超える巨大市場
中国でギグワーカーとして働く人は2億人以上に達しています。その50%以上が1990年代および2000年代に生まれた若い世代です。フードデリバリー、ライドシェア、即時配送など、スマートフォンアプリを通じた仕事が急速に拡大しました。
特にフードデリバリー市場は2023年に約30兆円規模に成長し、3年間で2倍以上に拡大しています。美団(メイトゥアン)と餓了麼(ウーラマ)の大手2社だけで、配達員は計1000万人以上を抱える巨大産業となりました。
大手IT企業アリババグループのシンクタンクは、2036年には4億人がインターネットを通じて自営やフリーランスとして働くと予測しており、ギグエコノミーは今後も拡大が見込まれています。
不十分な社会保障
急速な拡大の一方で、ギグワーカーの社会保障は大きな課題となっています。多くの配達員はプラットフォーム企業と直接の雇用関係を持たず、第三者の請負業者を通じて働いているため、社会保険の対象外に置かれてきました。
深刻な事例として、2020年に食事配送サービス大手「餓了麼」の配達員が配送中に突然死した際、同社が「死亡した配達員と当社の間には雇用関係は存在しない」として、わずか2000元(約3万円)の「人道主義に基づく」支払いのみを遺族に提示したことが報じられています。
調査によると、ギグワーカーの「労災保険」納付比率は57.8%と最も高い一方、養老保険(年金)納付は33.6%にとどまっています。これは仕事中の事故リスクの高さを反映していますが、多くの配達員が十分な保障を受けられない状態にあります。
過酷な労働環境
フードデリバリー配達員の労働環境は厳しいものがあります。ほとんどの配達員が歩合制で働いており、景気低迷により安価な注文が増える中、収入を維持するために長時間労働を余儀なくされています。
美団の配達効率は非常に高く、一般的なデリバリーが「4時間10件」程度であるのに対し、美団では「3.75時間20件」と倍以上の効率を実現しています。この効率はAIシステムによる徹底した労働管理によって支えられており、配達員はシステムの指示に従って働いています。
香港理工大学のジェニー・チャン准教授は「配達員は長時間働いており、本当に切迫している」と指摘しています。二つの大手プラットフォームが市場を支配しているため、配達員が労働条件の悪化に抵抗する余地はほとんどありません。
若者の雇用問題と背景
深刻化する若年失業
中国国家統計局の発表によると、2025年8月の16〜24歳の失業率は18.9%に達しました。若年失業問題が深刻化した主因は、大卒者の急増と雇用ミスマッチの拡大です。
中国政府は1999年以降、大学の定員拡大政策を推進し、大学新卒者数は2002年の134万人から2024年には1,179万人へと約9倍に増加しました。しかし、大卒者の増加に見合う雇用の受け皿となる産業の育成が追いついていません。
不動産バブルの崩壊や政府によるIT産業への規制強化も、若者の雇用機会を減少させる要因となっています。SNS上には「滴滴出行(ディディ)か美団で働くしかない」「大学卒業と同時に失業だ」といった投稿も見られます。
ギグワークへの流入
正規雇用の機会が減少する中、多くの若者がギグワークに流入しています。美団の配達スタッフのうち20万人が四年制大学の学歴を持ち、6万人近くが修士号以上の学位を持っているとの報告もあります。
「美団」の配達スタッフとして登録すれば自分がしたいときに仕事ができ、中国では電動バイクに免許が不要なため、誰でも簡単に始められます。しかし、高学歴の若者がギグワークに従事することは、人材の有効活用という観点からも社会的な課題となっています。
少子化対策との関連
中国政府がギグワーカーの待遇改善を急ぐ背景には、少子化対策という側面もあります。若い世代の多くがギグワーカーとして不安定な雇用に置かれ、社会保障も不十分な状態では、結婚や出産を躊躇する要因となりかねません。
生活基盤の安定化は、少子化対策としても重要な政策課題となっています。ギグワーカーへの社会保障拡充は、若者の将来不安を軽減し、家族形成を後押しする狙いがあります。
政府の保護政策
労災保障制度の導入
2026年から導入される新制度では、フードデリバリーの配達員などについて、サービス運営会社の責任のもとで労災に相当する保障制度に加入させます。これにより、仕事中の事故やケガに対する補償が受けられるようになります。
従来、ギグワーカーは企業との間に雇用関係がないとして労災保険の対象外とされてきましたが、新制度ではプラットフォーム企業に保障責任を負わせることで、この問題を解消しようとしています。
休む権利の保障
新制度では労災保障に加えて、「休む権利」の保障も盛り込まれる見込みです。AIシステムによる効率重視の労働管理のもとで、配達員が十分な休息を取れない状況が問題視されてきました。
過度な長時間労働は事故リスクを高めるだけでなく、健康被害にもつながります。休息時間の確保を制度として保障することで、持続可能な働き方を実現する狙いがあります。
過去の行政指導
中国政府は2021年9月に、アリババ集団や滴滴出行などインターネットサービス大手10社に対して、ギグワーカーの権利保護を求める行政指導を行いました。今回の制度化は、こうした取り組みをさらに進めるものです。
政府の計画では、2025年までに基本養老保険(年金)の全国統合的取扱いを実現し、ギグワーカーなどのフレキシブルワーカーの加入条件を緩和するとしています。
注意点と今後の展望
企業側の負担増
新制度の導入により、プラットフォーム企業には新たなコスト負担が生じます。美団や餓了麼といった大手企業は近年収益を伸ばしており、美団の収益は2022年比で26%増加しました。しかし、保障制度への拠出が義務化されれば、収益構造に影響を与える可能性があります。
企業がコスト増を配達員への報酬削減で吸収しようとすれば、待遇改善の効果が薄れる恐れもあります。制度の実効性を確保するためには、適切な監督体制が必要です。
制度設計の課題
ギグワーカーは一般的な雇用者と異なり、複数のプラットフォームで同時に働いたり、労働時間が不規則だったりします。こうした働き方に対応した制度設計が求められます。
また、8000万人とも言われる対象者への制度適用を円滑に進めるためには、行政の体制整備も課題となります。
グローバルな潮流
ギグワーカーの保護は中国だけでなく、世界的な課題となっています。欧州連合(EU)では2024年にプラットフォーム労働者の権利保護に関する指令が採択されるなど、各国で規制強化の動きが進んでいます。
中国の政策は、世界最大規模のギグエコノミーにおける保護制度として、国際的にも注目を集めることになりそうです。
まとめ
中国政府は2026年から、8000万人規模のギグワーカーに対して労災保障制度を導入します。配達員などの事故やケガに対する補償を、プラットフォーム企業の責任のもとで保障する新たな枠組みです。
背景には、2億人を超えるギグワーカーの社会保障が不十分な状態が続いてきたことに加え、若年失業率の高止まりや少子化への対応という政策課題があります。若い世代の生活基盤を安定させることで、社会不安の解消と少子化対策につなげる狙いです。
企業の負担増や制度運用の課題はありますが、世界最大のギグエコノミーにおける労働者保護の取り組みとして、今後の展開が注目されます。
参考資料:
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