日本とASEAN、現地語AI開発で連携強化

by nicoxz

はじめに

日本政府が東南アジア諸国連合(ASEAN)との新たなAI協力に乗り出しています。その中核となるのが、各国の現地語に対応した大規模言語モデル(LLM)の共同開発です。第一弾としてカンボジアの公用語であるクメール語を使ったAIの整備を支援する計画が進行中です。

この動きは、単なる技術協力にとどまりません。AI分野で急速に影響力を拡大する中国に対抗し、ASEAN諸国との関係を深める戦略的な意味合いを持っています。本記事では、この取り組みの背景、具体的な内容、そして今後の展望について詳しく解説します。

なぜ現地語AIが重要なのか

言語の壁がAI普及を阻む

現在、世界のAI技術は英語を中心に発展してきました。しかし、東南アジア地域では多様な言語が使用されており、英語ベースのAIでは十分に機能しないという課題があります。

カンボジアで使用されるクメール語を例に取ると、オンライン上のデータが英語に比べて圧倒的に少ないという問題があります。さらに、クメール語は単語の区切りに空白を使わない特性があり、コンピューターが単語の境界を認識することが困難です。このような技術的な課題が、AI開発の障壁となっていました。

デジタル格差の是正

ASEAN内でもデジタル化の進展には大きな差があります。シンガポールやマレーシアは世界トップレベルのデジタルインフラを持つ一方、カンボジア、ラオス、ミャンマーなどはデジタル基盤整備の初期段階にあります。計算能力、人材、安定したネットワーク環境の不足が慢性的な課題となっています。

現地語対応のAI開発は、これらの国々が独自のデジタル経済を構築し、グローバルなAI革命に参加する機会を提供します。自国語でAIサービスを利用できることは、教育、行政、ビジネスのあらゆる場面でデジタル化を加速させる原動力となるのです。

日本のASEAN AI支援戦略

カンボジアでの先行プロジェクト

日本政府は2023年12月にカンボジアとの間で、デジタルインフラ整備を支援するODA(政府開発援助)パッケージに合意しました。この中には国家データセンターの開発支援、通信ネットワークの強化、人材育成支援が含まれています。

国家データセンターは、情報通信技術を活用して行政サービスを効率化するデジタル政府の中核施設となります。日本はセンターの設立と機器供給の両面で支援を提供します。通信ネットワーク強化プロジェクトでは、日本企業が低コストでの通信インフラ構築の実証実験を本格的に実施し、5G通信網の構築も視野に入れています。

オファー型ODAの新アプローチ

日本は2023年6月に開発協力大綱を改定し、「オファー型協力」という新たな支援枠組みを導入しました。これは気候変動対策、デジタル化推進、サプライチェーン強化、人材育成などの分野で、日本側から積極的にプログラムを提案する方式です。

このオファー型ODAの最初の実例がカンボジアで今年度から始動しています。AI分野での協力は、この新しいアプローチの象徴的なプロジェクトと位置づけられています。

官民連携の枠組み

日本政府は東南アジアの言語・文化に根ざした生成AIの基盤整備について、官民協力の枠組みを構築しています。各国のLLM構築を日本が技術面と財政面の両方で支える体制です。

民間企業の参画により、実用的なビジネスアプリケーションの開発も同時進行で進められます。これにより、AI技術が単なる研究段階にとどまらず、実際の社会課題解決に活用される道筋が整えられています。

地域のAI開発イニシアチブ

SEA-LIONプロジェクト

ASEAN地域では、シンガポールのAIシンガポールが主導するSEA-LION(Southeast Asian Languages in One Network)という重要なプロジェクトが進行しています。これは東南アジアの多様な文脈、言語、文化をより深く理解できるオープンソースのLLMファミリーです。

SEA-LIONはインドネシア語、タイ語、ベトナム語、フィリピノ語、ビルマ語、マレー語、ラオ語など11の主要な東南アジア言語で訓練されています。最新版のSEA-LION V3はGemma 2をベースに、2,000億トークンの東南アジアデータで継続的に事前訓練されています。

2025年1月には、AI Forum CambodiaとAIシンガポールの間でMOU(覚書)が締結され、SEA LIONプロジェクトの一環として初のクメール語LLMの構築が開始されました。カンボジアの研究者やエンジニアはトレーニングを受けており、クメール文字に対応したモデルの技術的な作業が進められています。2025年末までにデモが公開される予定で、コードとデータは無償で一般公開されます。

タイの自国語AI戦略

タイでは、自国語対応の大規模言語モデル「ThaiLLM」の普及を目指し、国家戦略の下で研究開発が進んでいます。これは政府主導で自国のデジタル主権を確立しようとする動きの一環です。

タイの事例は、各国が自国語AIを戦略的資産と位置づけ始めていることを示しています。言語モデルは単なるツールではなく、国家のデジタル基盤そのものと認識されるようになっているのです。

中国との競争構図

中国のASEAN AI展開

中国はASEAN地域でのAI協力を積極的に進めています。2025年には中国-ASEAN諸国人工知能応用協力センターが設立され、中国-ASEAN「AI+」アクションの開始とAI分野の閣僚級協力メカニズムの確立が提案されました。

中国とASEAN諸国を結ぶ陸上光ケーブルは30本以上に達し、地域のデジタルバックボーンを強化しています。中国の5G技術、人工知能、デジタルインフラにおける強みは、ASEANのデジタル開発に貴重な支援を提供できる立場にあります。

ファーウェイなどの中国テクノロジー企業は、東南アジアでクラウドコンピューティングセンターの構築やスマートシティ開発を支援しています。アリババのDAMO Academyは、東南アジアの少数言語に適応した言語モデルの研究を進めています。

日本の差別化戦略

日本のアプローチは、中国とは異なる特徴を持っています。第一に、オープンソースと透明性を重視している点です。SEA-LIONプロジェクトのように、開発されたモデルやデータが無償で公開され、政府、学校、スタートアップ、NGOなど誰でも自由に利用できる仕組みを推進しています。

第二に、人材育成と技術移転に力を入れています。現地の研究者やエンジニアがAI技術を習得し、自立的に開発を続けられる体制づくりを支援しています。これは長期的な能力構築を目指すアプローチです。

第三に、日本企業のASEAN進出を後押しする狙いがあります。現地語AI基盤が整備されることで、日本企業が東南アジア市場でAI関連サービスを展開しやすくなります。

技術的課題と解決策

データ不足への対応

低リソース言語のAI開発において最大の課題は、訓練データの不足です。英語に比べて、クメール語やラオ語などのオンラインデータは圧倒的に少ないのが現状です。

この課題に対して、AIシンガポールとGoogle Researchが共同で進めているProject SEALDでは、東南アジアの言語でLLMを訓練、微調整、評価するためのデータセットの強化を行っています。既存のデータを効率的に活用し、質の高い訓練データを構築する手法が研究されています。

文字体系の複雑性

クメール語のように単語間に空白がない言語では、単語の分割(トークン化)が技術的な難題となります。また、東南アジアには独自の文字体系を持つ言語が多数存在します。

SEA-LIONプロジェクトでは、これらの文字体系に対応した特殊な処理技術が開発されています。最新のv4では、テキストだけでなく画像とテキストの組み合わせを扱えるマルチモーダルモデルとなり、地域特化のOCR(光学文字認識)機能も搭載されています。

計算リソースの制約

高性能なAIモデルの訓練には膨大な計算リソースが必要です。しかし、多くのASEAN諸国ではこうした計算能力が不足しています。

日本のデータセンター支援はこの課題に直接対応するものです。カンボジアの国家データセンター整備により、国内での計算能力が向上し、AI開発の基盤が強化されます。また、クラウドサービスを活用した効率的な開発手法も導入されています。

ビジネスへの実用展開

音声アシスタントの現地語対応

インドネシアのテクノロジー企業GoToは、SEA-LIONをベースにしたSahabat-AIというLLMエコシステムを立ち上げました。これはGoToのDira AI音声アシスタントに統合され、ユーザーは母語や方言で音声コマンドを使ってGojekやGoPay決済サービスにアクセスできます。

このような実用例は、現地語AIが単なる研究プロジェクトではなく、実際のビジネスサービスとして機能し始めていることを示しています。

行政サービスのデジタル化

現地語AIは、政府の行政サービスをデジタル化する上で不可欠なツールとなります。市民が自国語で問い合わせや手続きができるAIチャットボットの導入により、行政の効率化と市民サービスの向上が期待されています。

カンボジアの国家データセンターは、こうしたデジタル政府サービスの中核となる施設として位置づけられています。

教育分野への応用

現地語AIは教育分野でも大きな可能性を秘めています。学習者が母語で質問し、AIが母語で回答する教育支援システムは、特に遠隔地や教師不足の地域で有効です。

ASEAN諸国では教育格差が課題となっていますが、現地語AIを活用した教育プラットフォームにより、質の高い学習機会へのアクセスが広がる可能性があります。

注意点と今後の展望

プライバシーとデータ主権

AI開発にはデータ収集が不可欠ですが、プライバシー保護とデータ主権の確保は重要な課題です。特に中国のAI協力に対しては、データ管理やプライバシー保護の面で懸念が指摘されています。

日本のアプローチでは、オープンソースと透明性を重視することで、データ主権を各国が保持できる仕組みづくりを目指しています。しかし、具体的なデータガバナンスの枠組みは各国の法制度とも関連するため、継続的な議論が必要です。

地域標準の調和

ASEAN内でもAI準備度や規制アプローチには大きな差があります。シンガポールは世界最高水準のAIガバナンスを持ち、AIモデルの安全性を検証する「AI Verify」ツールを開発・提供しています。一方、デジタル化の初期段階にある国々では、まだ包括的なAI規制が整っていません。

米中の技術競争、まだ発展途上のグローバル標準、ASEAN諸国間のAI準備度の格差などが、地域的な調和を複雑にしています。日本が主導するAI協力では、こうした多様性に配慮しながら、段階的な標準化を進めることが求められます。

長期的な人材育成

AI技術は急速に進化しており、一度の技術移転だけでは不十分です。継続的な人材育成と研究開発体制の構築が必要です。

日本のODA支援には人材育成プログラムが含まれていますが、長期的に自立したAI開発能力を育てるには、大学や研究機関との連携、奨学金制度、研究者交流プログラムなど、多層的な取り組みが重要となります。

持続可能なビジネスモデル

オープンソースのAIモデルは無償で利用できる一方、開発と維持には継続的な投資が必要です。政府の資金だけに頼るのではなく、民間企業が参画できる持続可能なビジネスモデルの構築が課題です。

GoToのSahabat-AIのように、商用サービスに組み込むことで収益を生み出し、それがAI開発の資金源となる好循環の仕組みづくりが期待されています。

まとめ

日本とASEANの現地語AI共同開発は、技術協力と戦略的パートナーシップの両面で重要な意味を持つ取り組みです。カンボジアのクメール語AIを皮切りに、東南アジア各国の言語に対応したLLMの整備が進められています。

この動きは、AI分野で影響力を拡大する中国に対抗しつつ、ASEAN諸国のデジタル主権を尊重し、オープンで透明性の高いAI基盤の構築を目指すものです。SEA-LIONプロジェクトなど地域主導の取り組みと連携しながら、技術移転と人材育成を通じた長期的な能力構築が進められています。

現地語AIは、教育、行政、ビジネスのあらゆる分野でデジタル化を加速させる可能性を秘めています。データ不足や技術的複雑性などの課題は残りますが、官民連携と国際協力により着実に前進しています。

今後は、プライバシー保護、地域標準の調和、持続可能なビジネスモデルの構築などの課題に取り組みながら、ASEAN全域でのAI普及を実現することが期待されます。日本のODA支援が、東南アジアのデジタル未来を形作る重要な役割を果たすことになるでしょう。

参考資料:

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