キヤノン御手洗会長が綴る「私の履歴書」、蒲江での幼少期

by nicoxz

はじめに

日本経済新聞の名物連載「私の履歴書」は、1956年の創刊以来、各界のトップランナーたちが自らの半生を綴る自伝シリーズとして、70年近い歴史を誇ります。2026年1月、キヤノン代表取締役会長兼社長CEOの御手洗冨士夫氏が登場し、大分県蒲江町での幼少期から語り始めました。

キヤノン創業者の御手洗毅氏を伯父に持ち、23年間の米国駐在を経て、デフレ不況下のキヤノンを建て直した名経営者。その原点は、どのような環境で形成されたのでしょうか。本記事では、御手洗氏の生い立ちと「私の履歴書」という貴重な文化的資産について解説します。

「私の履歴書」とは何か

70年続く日経新聞の名物連載

「私の履歴書」は、日本経済新聞の朝刊最終面に連載される自伝形式の記事で、1956年3月1日に政治家・鈴木茂三郎氏の回顧録からスタートしました。当初は1週間程度の短期連載でしたが、徐々に拡大し、1987年以降は1人につき1ヶ月間(月初から月末まで)の連載形式が定着しています。

2025年末までに累計914人が登場し、経営者、政治家、文化人、学者、スポーツ選手など、各界の第一人者たちが自らの人生を振り返ってきました。登場者の約3分の1が作家・学者などの文化人、3分の1が経営者、残りが政治家・官僚、スポーツ選手、外国人で構成されています。

唯一2度登場した松下幸之助

「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助(パナソニック創業者)は、1956年に8回シリーズで登場した後、20年後に再び登場した唯一の人物です。これは、彼のその後の業績が連載に値すると判断されたためで、いかにこの連載が重要視されているかを物語っています。

海外からもマーガレット・サッチャー元英首相、ポール・ボルカー元FRB議長、インテル創業者のゴードン・ムーア氏、GE会長のジャック・ウェルチ氏、経営学者のピーター・ドラッカー氏など、世界的な著名人が登場してきました。

御手洗冨士夫氏の生い立ち

大分県蒲江町での幼少期

御手洗冨士夫氏は1935年9月23日、大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれました。父・信夫氏が45歳、母・園氏が33歳のときの8番目の子どもとして誕生しています。

蒲江町は大分県東南部の海と山に囲まれた小さな町で、御手洗家は代々医者を輩出してきた旧家でした。生家は昔の大庄屋だったこともあり、武家屋敷の造りで敷地も広く、ツツジやモミジが美しい庭が今も残っています。屋敷の裏手にはスダジイやイスノキなどの原生林が生い茂る山があり、夜にはフクロウの鳴き声が聞こえる自然豊かな環境でした。

わんぱく少年時代

御手洗氏は自らを「わんぱく坊主そのもの」と振り返ります。先祖伝来の刀を竹やぶで振り回して傷つけてしまったり、親に隠れてこっそり犬を飼ったり、天保時代に先祖が酒造りのために掘った井戸に忍び込んだりと、好奇心旺盛な少年でした。

母親は叱らない教育方針で、海と山という自然が育て親となった環境で伸び伸びと育ちました。この自由な環境が、後の経営者としての柔軟な発想力の基礎になったと考えられます。

戦前は地元に中学校がなかったため、兄姉4人は隣の佐伯市や大分市の中学に下宿して通いましたが、御手洗氏は蒲江に中学ができたため、兄姉より3年長く地元で過ごしました。その分愛着が強く、現在も本籍は蒲江に残しています。

医者にはならないと決めた日

1945年5月20日、小学4年生のときに、御手洗氏は「絶対に医者にはならない」と心の中で決めたといいます。医者一族の家系に生まれながら、負傷兵に関連する何らかの出来事が、この決断のきっかけとなったようです。

この決断は、後にキヤノンという製造業の世界に進む大きな転換点となりました。家業を継がず、自らの道を選ぶ決断力は、幼少期の自由な環境で培われたものかもしれません。

キヤノンとの縁

創業者は伯父・御手洗毅

御手洗冨士夫氏がキヤノンに入社したのは1961年、中央大学法学部を卒業した直後でした。キヤノンの創業者である御手洗毅氏は彼の伯父にあたり、家族的なつながりが入社のきっかけとなりました。

御手洗毅氏は「ライカを超える」という世界一を目指す強い意志を持ち、能力主義と家族主義を重視した経営者でした。1959年には「GHQ(Go Home Quickly)」というスローガンを掲げ、当時の日本企業では珍しい「仕事より家庭を優先する」考え方を推進しました。1967年には完全週休2日制を導入するなど、先進的な経営理念を実践しました。

23年間のアメリカ駐在と経営哲学

御手洗冨士夫氏は23年間アメリカに駐在し、後半の10年間はキヤノンUSAの社長を務めました。1979年にキヤノンUSA社長に就任し、アメリカ式の合理的な経営手法を学びました。

この経験から生まれたのが「終身雇用の実力主義」という経営哲学です。日本流の終身雇用で集団的結束を強め、アメリカ流の競争で個人の能力を引き出すという、両者の良いところを取り入れた独自のスタイルを確立しました。

キヤノン再建と経営者としての実績

デフレ不況下での奇跡的な業績

1995年、従兄弟である第5代社長・御手洗肇氏が急逝したため、御手洗冨士夫氏は第6代キヤノン社長に就任しました。デフレ不況という厳しい経営環境の中、キヤノンは純利益で3期連続の過去最高を達成し、2003年には米ビジネスウィーク誌が選ぶ「世界の経営者25人」に選ばれました。

2006年には経団連会長に就任すると同時にキヤノン会長となり、2019年には再び社長に就任するという異例のキャリアを歩んでいます。現在も84歳で会長兼社長CEOとして経営の最前線に立っています。

多岐にわたる社会的役割

経営者としてだけでなく、内閣府経済財政諮問会議議員、ラグビーワールドカップ2019組織委員会会長、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会名誉会長など、日本経済と社会の発展に幅広く貢献してきました。

「悲観は感情から生まれ、楽観は意志から生まれる」という言葉に象徴されるように、困難な状況でも前向きに挑戦し続ける姿勢が、多くの人々から尊敬を集めています。

注意点・展望

自伝から学ぶべきもの

経営者の自伝は、成功体験の羅列ではなく、挫折や葛藤、決断の瞬間を知ることに価値があります。御手洗氏の「私の履歴書」も、幼少期のわんぱくなエピソードから、医者にならないと決めた重要な転換点まで、人間としての成長過程を率直に語っています。

ビジネスパーソンにとって、こうした自伝は単なる読み物ではなく、意思決定の参考書となります。特に若い世代には、トップ経営者がどのような環境で育ち、どんな価値観を形成してきたかを知ることが、キャリア形成のヒントになるでしょう。

「私の履歴書」の今後

70年近い歴史を持つ「私の履歴書」は、日本のビジネス史・文化史の貴重なアーカイブです。今後もさまざまな分野のトップランナーが登場し、次世代に知恵と経験を伝えていくことが期待されます。

デジタル時代においても、人間の生の声で語られる人生のストーリーには、AI では代替できない価値があります。過去の連載は書籍化されており、いつでも読み返すことができる資産となっています。

まとめ

日本経済新聞の「私の履歴書」に登場した御手洗冨士夫キヤノン会長の幼少期のエピソードから、日本を代表する経営者の原点が見えてきました。大分県蒲江町の自然豊かな環境で育った少年が、叱らない母と海と山に育まれ、後に世界的企業を率いる経営者になるまでの物語は、環境と教育の重要性を示しています。

「私の履歴書」という連載自体も、1956年以来70年近く続く日本のビジネス文化の重要な資産です。各界のトップランナーたちが自らの言葉で人生を振り返る機会は、次世代にとってかけがえのない学びの機会となっています。

御手洗氏の連載は今後も続きますので、ぜひ日本経済新聞で全編を読むことをお勧めします。一人の経営者の人生から、日本の産業史、社会の変遷、そして普遍的な人間の成長物語を読み取ることができるでしょう。

参考資料:

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