御手洗冨士夫氏「私の履歴書」セル生産でコンベヤー2万m撤去
はじめに
日本経済新聞の「私の履歴書」で連載中のキヤノン会長兼社長CEO・御手洗冨士夫氏の回顧録が、製造業関係者の注目を集めています。1997年夏、当時のキヤノンが抱えていた生産性低下の課題に対し、御手洗氏は「セル生産方式」という新たな手法を導入しました。
この改革により、工場のベルトコンベヤー約2万メートルが撤去され、生産性は劇的に向上。キャッシュフロー経営の土台が築かれ、キヤノンは日本有数の高収益企業へと変貌を遂げました。
本記事では、セル生産方式の仕組みと、キヤノンの経営改革における位置づけを解説します。
「私の履歴書」が語るセル生産導入の経緯
1997年、本体の稼ぐ力をどう再生するか
御手洗氏が1995年にキヤノン社長に就任した当時、会社は8,400億円を超える負債を抱えていました。米国で23年間過ごした後の帰国であり、経営改革は待ったなしの状況でした。
「本体の稼ぐ力をどう再生するか。なかなか妙案がない」と模索する中、周辺機器事業本部長の北村喬氏から「実はセル生産という方式があります」と教えられたのが転機でした。
ソニー工場の視察
「面白そうな話だったが、自分の目で見ないと納得できない」と考えた御手洗氏は、成功事例を見るためソニー(現ソニーグループ)の千葉県内の工場を視察しました。1997年の夏のことです。
そこでは家庭用ゲーム機の組み立てにセル生産が導入されており、従来のベルトコンベヤー方式とは全く異なる光景が広がっていました。
コンベヤー2万メートルの撤去
視察後、御手洗氏はキヤノンへのセル生産導入を決断します。その結果、工場からベルトコンベヤーが姿を消しました。撤去されたコンベヤーの総延長は約2万メートルにも及んだと言われています。
これにより、省スペース・省エネルギー・省資源を実現しながら、生産性の大幅な向上を達成しました。
セル生産方式とは
ライン生産との違い
セル生産方式とは、1人または少数の作業者チームで製品の組み立て工程を完成まで行う生産方式です。L字型やU字型に治具や部品を配置した「セル」と呼ばれる区画を構成し、作業者がその中で組立を完結させます。
従来のライン生産方式では、製品がベルトコンベヤーで上流から下流に流れる中、各作業者が担当の部品を組み付けていきます。分業による効率化が特徴ですが、大量生産に向いている一方で、多品種少量生産には不向きという課題がありました。
セル生産方式では基本的にコンベヤーを使用せず、作業者が手送りでワークを扱います。これにより、多品種少量生産への対応力が格段に向上します。
セル生産のメリット
セル生産方式には以下のメリットがあります。
1. 多品種少量生産に適している 各セルが独立したラインとして機能するため、それぞれが異なる製品を作ることができます。段取り替えの回数も減り、製品の切り替えが容易です。
2. 仕掛り在庫の圧縮 セル内で組立が完結するため、工程間の仕掛り在庫が大幅に削減されます。製造リードタイムも短縮され、キャッシュフローの改善につながります。
3. 生産変動への適応力 コンベヤーラインに比べ、設備がシンプルなセルでは需要に応じた増減が容易です。レイアウト変更にも柔軟に対応できます。
4. 作業者のモチベーション向上 一人で完成まで担当するため、責任感と達成感が生まれます。品質への意識も高まります。
デメリットと対策
一方で、セル生産方式には課題もあります。
作業者の熟練に時間がかかる 一人で多工程を担当するため、「多能工」として熟練するまでに時間を要します。教育投資と長期雇用が前提となります。
作業者間で生産量・品質に差が出やすい 個人のスキルに依存するため、作業者間でばらつきが生じる可能性があります。
キヤノンはこの課題に対し、「マイスター称号制度」を導入しました。製品を一人で組み立てられる熟練作業者を対象に称号を付与し、スキル向上へのモチベーションを高める仕組みです。
キヤノンの経営改革とセル生産
キャッシュフロー経営の土台
御手洗氏が推進した経営改革は、「キャッシュフロー経営」を軸としていました。セル生産方式の導入は、その土台を築く重要な施策でした。
セル生産がキャッシュフローに貢献する理由:
- 仕掛り在庫の削減 → 運転資金の圧縮
- 製造リードタイム短縮 → 早期の売上計上
- 省スペース化 → 設備投資の抑制
- 多品種対応 → 過剰在庫リスクの低減
これらの効果により、工場の生産性が向上し、キャッシュフローが改善しました。
選択と集中
セル生産導入と並行して、御手洗氏は事業の「選択と集中」を断行しました。
撤退した事業:
- 液晶ディスプレイ
- 光ディスク
- パーソナルコンピュータ
集中した事業:
- プリンター
- カメラ
- 半導体製造装置
利益率の高い事業に経営資源を集中させることで、収益性を高めました。
負債完済と高収益企業への転換
これらの改革の結果、社長就任前にあった8,400億円超の負債を事実上完済。日本有数のキャッシュフローを持つ企業にまで財務体質が改善されました。営業利益率などの経営指標も製造業トップクラスに押し上げられました。
セル生産方式の現在と未来
多くの企業が導入
キヤノンのセル生産方式導入成功を受け、トヨタをはじめ多くの製造業企業がこの方式を採用しています。特に多品種少量生産が求められる製品の組立工程で威力を発揮しています。
デジタル技術との融合
近年は、セル生産方式とデジタル技術を組み合わせた「デジタルセル生産」も登場しています。AR(拡張現実)による作業指示や、IoTによる品質管理など、作業者の負担軽減と品質向上を両立する取り組みが進んでいます。
製造業のあり方への示唆
御手洗氏のセル生産導入は、「大量生産・大量消費」から「多品種少量・顧客ニーズ対応」へという製造業のパラダイムシフトを先取りしたものでした。
現在のサプライチェーン混乱や、カスタマイズ需要の高まりを考えると、セル生産の柔軟性は今後さらに価値を増すと考えられます。
御手洗氏の経営哲学
終身雇用の実力主義
御手洗氏は「終身雇用の実力主義」を掲げています。日本流の終身雇用による集団結束力と、米国流の競争による個人の力を引き出す経営の両立を目指すものです。
セル生産方式は、この経営哲学とも整合しています。長期雇用を前提に多能工を育成し、個人のスキル向上を促すマイスター制度で競争原理も働かせる。まさに「終身雇用の実力主義」の実践例と言えます。
雇用を守りながら改革
厳しい経営環境下でも御手洗氏は雇用の堅持を第一義としました。夏休みの短縮、成果主義の導入、フレックスタイム制の廃止など、従業員に協力を求めながらも、雇用は守り抜きました。
石油危機、バブル崩壊、リーマン・ショック、デジタル革命と幾多の窮地を乗り越えた経営手腕は、日本の製造業にとって貴重な教訓となっています。
まとめ
御手洗冨士夫氏が1997年にキヤノンに導入したセル生産方式は、約2万メートルのベルトコンベヤーを撤去し、工場の生産性を劇的に向上させました。この改革は、キャッシュフロー経営の土台となり、キヤノンを日本有数の高収益企業に押し上げました。
セル生産方式は、多品種少量生産への対応力、仕掛り在庫の削減、作業者のモチベーション向上など多くのメリットを持ちます。一方で、多能工の育成に時間がかかるという課題もあり、長期雇用を前提とした人材育成が不可欠です。
「私の履歴書」で語られる御手洗氏の経営改革は、変革期にある日本の製造業にとって、今なお示唆に富むものと言えるでしょう。
参考資料:
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