御手洗冨士夫氏が語るバブル期日本への違和感と経営改革
はじめに
キヤノン会長兼社長CEOの御手洗冨士夫氏(90歳)が、日本経済新聞の「私の履歴書」で半生を振り返っています。連載第20回では、23年間のアメリカ駐在を終えて帰国した際、バブル景気に沸く日本の姿に感じた強烈な違和感が語られました。
「迎車」を「芸者」と聞き間違えるほど、日本の感覚から離れていた御手洗氏。「浦島太郎」と自嘲しながらも、その外からの視点こそが後のキヤノン経営改革の原動力となりました。本記事では、御手洗氏の経験を通じて、バブル期の日本企業文化と事業部制の構造的課題について解説します。
23年ぶりの帰国で見たバブル日本
アメリカ仕込みの経営者
御手洗冨士夫氏は1935年、大分県蒲江町(現・佐伯市)に生まれました。中央大学法学部を卒業後、1961年に伯父の御手洗毅氏が創業者の一人であるキヤノンに入社しました。
入社後まもなくアメリカに赴任し、以来23年間にわたって現地法人の立ち上げに奔走しました。後半の10年間はキヤノンUSAの社長を務め、アメリカ仕込みの合理的経営手法を身につけました。
平社員時代に渡米し、現地で社長に昇格するという異例のキャリアを歩んだ御手洗氏。日本に帰国する前にキヤノン本体の取締役となったため、「管理職経験のない経営者」という珍しい立場となりました。
「迎車」と「芸者」の聞き間違い
バブル景気真っただ中の日本に帰国した御手洗氏は、強烈なカルチャーショックを受けました。取引先との食事の後、タクシーを呼んでもらおうとしたところ、「ゲイシャでいっぱいです」と言われ、「それほどたくさんの芸者さんがタクシーを待っているのか」と驚いたといいます。
実際には「迎車」のことでしたが、23年間のアメリカ生活で日本語の感覚が薄れていたのです。御手洗氏自身、「私の感覚がずれていたのだろう。浦島太郎と言ってもいい」と振り返っています。
バブル期の日本企業文化
接待・交際費の浪費
1986年から1991年にかけてのバブル景気では、日本企業の行動様式は大きく変わりました。企業は接待費や交際費を湯水のように使い、近場でもタクシーを当たり前のように利用していました。
特に象徴的だったのがタクシー事情です。赤坂や六本木では、一万円札を振りかざさないとタクシーが拾えないとまで言われました。クリスマスには大学生や若手社員が高級ホテルのスイートルームでパーティを開くなど、浮かれた雰囲気が社会全体を覆っていました。
採用活動の過熱
人気企業の採用活動も過熱しました。有名大学の学生は「3S」(寿司、ステーキ、ソープ)やディズニーランド、海外旅行で接待されるケースもあったと言われています。
電通やサントリー、カネボウ、フジテレビなど、広告出稿量の多い華やかなイメージの企業に学生が殺到しました。文系学生のみならず、本来であれば製造業に進むはずの理系学生までもがこれらの企業を志望しました。
事業部制の「企業内企業」問題
セクショナリズムの弊害
御手洗氏が帰国後に直面したのは、事業部制が生み出す「企業内企業」の問題でした。事業部制は責任と権限を明確化できる利点がありますが、同時に「セクショナリズム」(縄張り主義)という深刻な課題を抱えています。
セクショナリズムとは、組織内で特定の部門の利益を優先し、他部門からの干渉を排除しようとする傾向です。「タコツボ化」とも呼ばれ、大企業や官僚組織で頻繁に見られます。
日本企業に多いヒエラルキー型組織は縦割り構造になりやすく、セクショナリズムに陥りやすい特徴があります。上下関係が厳しく、自由に意見が言えない環境は、閉鎖的な感情を生み出していきます。
2つのセクショナリズム
企業内のセクショナリズムには2つの類型があります。
1つ目は「無関心型・非協力型」です。他部門への悪意はないものの、「自分たちのグループさえよければいい」という考えが強く、全社的な視点が欠如しています。
2つ目は「批判型・排他型」です。自部門の利益を優先するあまり、他部門を批判し攻撃しようとします。部門間の不毛な争いが繰り返され、組織全体の生産性を著しく低下させます。
御手洗流の経営改革
グローバル優良企業グループ構想
1995年、従弟の御手洗肇氏の死去を受けて、御手洗冨士夫氏は第6代社長に就任しました。翌1996年には「グローバル優良企業グループ構想」をスタートさせ、本格的な経営改革に乗り出しました。
御手洗氏は「IT革新という大きな流れが1990年代終わりから起きてきた。デジタル化、IT化という流れに沿った会社につくり直さなければいけない」と語っています。
セル生産方式の導入
1998年、キヤノンは画期的な「セル生産方式」を導入しました。従来のベルトコンベアによる大量生産を廃止し、いくつもの作業台(セル)を並べる方式に転換したのです。
数人のチームがセルを囲み、一人ひとりが複数の作業をしながら製品を組み立てます。これにより、ラインに部品が流れてくるのを待つ時間が短縮され、生産効率が大幅に向上しました。
当時の御手洗社長は「セル方式の究極の目標は無人化。国内最高益をあげるトヨタ自動車より、まだ10年は遅れている」と述べていました。
経営改革の成果
御手洗氏の改革は着実に成果を上げました。社長在任中に連結売上高は1.5倍、営業利益は2.6倍に拡大しました。売上高営業利益率は15.5%と、欧米の有力企業に引けを取らない水準に到達しました。
株価は4倍強に上昇し、製造業の株式時価総額ではトヨタ自動車に次いで第2位になったこともあります。2006年には日本経済団体連合会(経団連)会長に就任し、財界のリーダーとしても活躍しました。
今後の展望と教訓
「外からの視点」の重要性
御手洗氏の経験は、「外からの視点」の重要性を示しています。23年間のアメリカ生活で日本の常識から離れていたからこそ、バブル期の浮かれた雰囲気に違和感を覚えることができました。
組織が同質化し、内向きになりがちな日本企業において、異なる経験や価値観を持つリーダーの存在は貴重です。グローバル人材の育成や外部人材の登用が、今後ますます重要になるでしょう。
セクショナリズム克服への道
セクショナリズムを解消するには、全社的な目的意識の共有が欠かせません。組織全体の利益が一人ひとりの利益につながることを具体的に示す必要があります。
日産の「クロスファンクショナルチーム」やシャープの「緊急プロジェクト」のように、部門横断的なチームを編成することも有効な手段です。また、ジョブローテーション制度によって従業員が様々な職場を経験することで、他部門への理解が深まります。
まとめ
御手洗冨士夫氏が23年ぶりに帰国した日本は、バブル景気に沸き、企業文化も大きく変容していました。「迎車」と「芸者」を聞き間違えるほど日本の感覚から離れていた御手洗氏でしたが、その「外からの視点」こそが経営改革の原動力となりました。
事業部制が生み出す「企業内企業」の問題、すなわちセクショナリズムは、多くの日本企業が今なお抱える課題です。縦割り組織の弊害を克服し、全社一丸となって競争力を高めていくことが求められています。
石油危機からバブル崩壊、リーマン・ショック、デジタル革命まで、幾多の窮地と対峙してきた御手洗氏の経験は、変化の激しい現代においても多くの示唆を与えてくれます。
参考資料:
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