御手洗冨士夫氏の「選択と集中」、キヤノン復活を支えた経営哲学
はじめに
企業経営において「選択と集中」は、限られた経営資源を最大限に活用するための重要な戦略です。日本企業の中でも早い段階からこの戦略を取り入れ、成功を収めたのがキヤノンです。
キヤノンの御手洗冨士夫氏は、1995年の社長就任以降、パソコン事業を含む複数の事業からの撤退を決断し、プリンターやカメラに経営資源を集中させました。その結果、8,400億円を超える負債を事実上完済し、日本有数のキャッシュフローを持つ企業へと変貌させました。
本記事では、御手洗氏の経営哲学と「選択と集中」戦略の実践について解説します。
御手洗冨士夫氏とキヤノンの転機
社長就任の経緯
御手洗冨士夫氏は1995年、社長を務めていた従弟の御手洗肇氏の死去を受けて、第6代キヤノン社長に就任しました。それまでは米国法人の社長として23年間にわたりアメリカで経営経験を積んでいました。
社長就任時のキヤノンは、8,400億円を超える負債を抱え、経営効率の改善が急務でした。御手洗氏は米国での経験を活かし、「キャッシュフロー経営」と「事業の選択と集中」を柱とする経営改革に着手しました。
パソコン事業撤退の決断
撤退命令を出した子会社の一つは、スティーブ・ジョブズ氏がアップルから追放された際に設立したNeXT社のハードウェア部門が前身でした。キヤノンは1989年にNeXTに1億ドル(約160億円)を出資し、同社の16.67%の株式を取得していました。その後も追加投資と信用供与を行い、パソコン事業の中核として位置づけていました。
社内では「パソコンはデジタル時代の主役になる。キヤノンの将来も担う」という声が強くありました。しかし御手洗氏は疑問を持っていました。日本国内でもNECや富士通に歯が立たない状況で、世界で戦えるはずがないという判断でした。
さらに根本的な問題として、CPUはインテル、OSはマイクロソフトという構図の中で、パソコンメーカーが付加価値を生み出す余地は限られていました。御手洗氏は「利益優先主義」と「全体最適」の観点から、パソコン事業からの撤退を決断しました。
「選択と集中」戦略の実践
撤退した7つの事業
御手洗氏が撤退を決めたのはパソコン事業だけではありませんでした。液晶ディスプレイ、光ディスク、ワープロ、電卓など、合計7つの事業から撤退しました。
これらの事業は、一見すると成長分野に見えるものもありました。しかし御手洗氏は、キヤノンがその分野で競争優位を確立できるかどうかを冷静に判断し、勝てない事業からは潔く撤退するという方針を貫きました。
経営資源の集中先
撤退した事業の経営資源は、キヤノンが強みを持つ分野に集中されました。
複写機・プリンター: インクカートリッジやトナーなどの消耗品ビジネスは高い利益率を誇り、キヤノンの収益の柱となりました。
デジタルカメラ: 光学技術を活かしたデジタルカメラ事業では、世界ナンバーワンの地位を獲得しました。
半導体製造装置: 高度な精密技術を要する半導体露光装置は、高付加価値製品として事業ポートフォリオを支えました。
生産改革との両輪
御手洗氏は事業の選択と集中に加え、生産方式の改革にも着手しました。従来のベルトコンベア方式から、一人または少人数で製品を組み立てる「セル生産方式」を導入しました。
セル生産方式により、在庫の削減、リードタイムの短縮、品質向上が実現しました。生産性が低下していた工場の効率が大幅に改善され、コスト競争力が強化されました。
経営改革の成果
財務体質の劇的改善
御手洗氏の改革により、キヤノンの財務体質は劇的に改善しました。社長就任前に8,400億円を超えていた負債は事実上完済され、日本有数のキャッシュフローを持つ企業となりました。
営業利益率などの経営指標も製造業トップクラスにまで向上し、デフレ不況の中でも純利益で3期連続の過去最高を達成しました。2003年には、米ビジネスウィーク誌が選ぶ「世界の経営者25人」に選ばれています。
260億円の赤字削減
選択と集中による赤字部門の切り離しと主力部門への集中化により、キヤノンは260億円の赤字削減に成功しました。経営の健全化を実現し、安定した収益基盤を構築しました。
御手洗流「終身雇用の実力主義」
雇用を守りながらの改革
御手洗氏の経営改革で特筆すべきは、事業撤退を進めながらも雇用を守り抜いたことです。「80何年の歴史で、うちはリストラをやったことがない」と御手洗氏は述べています。
厳しい経営環境に際して、雇用の堅持を第一義とし、夏休みの短縮などの対応を行いました。従業員との運命共同体としての結束力を維持しながら、改革を進めたのです。
年功序列の撤廃と実力主義
一方で、御手洗氏は年功序列を撤廃し、実力主義の賃金体系を導入しました。従業員の雇用形態を守る代わりに、能力と成果に基づく評価を組合に認めさせました。
この「終身雇用の実力主義」は、日本流の終身雇用による集団結束力と、米国流の競争による個人の力を引き出す経営の両立を目指したものです。御手洗氏の23年間の米国経験が、この独自の経営哲学を生み出しました。
「選択と集中」の教訓
成功のポイント
キヤノンの成功から得られる教訓は以下の通りです。
1. 冷静な競争力分析: 「勝てるかどうか」を客観的に判断し、感情や過去の投資に囚われない決断が重要です。パソコン事業への出資額は巨額でしたが、将来性がないと判断すれば撤退する決断力が必要でした。
2. 全体最適の視点: 個別事業の損益だけでなく、企業全体としての最適化を考えることが重要です。撤退した事業の経営資源を成長分野に振り向けることで、企業価値の最大化を図りました。
3. 従業員との信頼関係: 事業撤退は従業員の不安を招きますが、雇用を守るという約束を守ることで、改革への協力を得ることができました。
注意すべきリスク
選択と集中には注意すべきリスクもあります。
シャープは液晶テレビに特化し「世界の亀山」と呼ばれましたが、韓国・アジア企業との競争激化で赤字体質に陥りました。選択と集中が行き過ぎると、特定事業への依存度が高まり、市場環境の変化に対応できなくなるリスクがあります。
御手洗氏の場合は、プリンター、カメラ、半導体製造装置という複数の柱を維持することで、リスク分散を図っていた点も成功の要因といえます。
現在のキヤノンと御手洗氏
事業構造の転換
現在、キヤノンはカメラやプリンターに加え、医療機器を「10年後の柱」として位置づけています。御手洗氏は「事業の大転換は絶対にやり遂げる」と述べ、新たな成長分野への投資を進めています。
デジタルカメラ市場の縮小、ペーパーレス化によるプリンター需要の減少など、かつての主力事業が構造変化に直面する中、御手洗氏は再び「選択と集中」を実践しようとしています。
自前主義からの転換
2025年には、御手洗氏は「海外で生産委託を検討する」と発言し、長年の自前主義からの転換を示唆しています。環境変化に応じて経営方針を柔軟に見直す姿勢は、変わらぬ特徴といえます。
まとめ
御手洗冨士夫氏がキヤノンで実践した「選択と集中」戦略は、日本企業の経営改革の成功事例として広く知られています。パソコン事業を含む7事業からの撤退と、プリンター・カメラへの経営資源集中により、8,400億円の負債を完済し、日本有数の優良企業へと変貌させました。
その成功の鍵は、冷静な競争力分析に基づく決断力、全体最適の視点、そして雇用を守りながら改革を進める従業員との信頼関係にありました。「終身雇用の実力主義」という独自の経営哲学は、日米両方の経営手法の長所を融合したものです。
選択と集中は、正しく実践すれば企業の競争力を高める強力な戦略ですが、過度な集中は環境変化へのリスクを高める面もあります。御手洗氏の事例は、その両面を理解したうえでバランスの取れた経営判断を行うことの重要性を示しています。
参考資料:
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